僕は疎遠だった友人との再会を果たした。しばらく連絡が途絶えていた状態で、あるとき自分から一歩踏み出して、彼の家に行った。彼との再会を通して考えたことがある。
ジル・ドゥルーズは、「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する」と言った1。ドゥルーズが言うには、考えることを強制する「何ものか」とは、考えたくもないものである。思考の始まりは、考えたくもないものとの出会いにおいて発生する。
思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)を仮定せず、一切は嫌知(ミゾソフィー)から出発するのだ。思考によって思考される内容の相対的な必然性を安定させるために、思考をあてにするなどということはやめよう。反対に、思考するという行為の、また思考するという受苦(パッション)の絶対的な必然性を引き起し、しっかりと立たせるために、思考するという行為を強制するものとの出会いの偶然性をあてにしよう。2
彼に会いに行くべきだと思っていた。LINEのメッセージを送るのはやめておいた。顔が見えない状況でやり取りするのは怖かった。事前に連絡を取ってから行くのではなく、直接会いたかった。だが、行為のリスクはある。彼にとっては突然の来訪となる。急にひょっこり現れた僕を見て、彼がどう思うか。行ってどうなるかは本当にわからなかった。もっとよくない状況になるかもしれない。絶交だと言われるかもしれない。一歩踏み出す覚悟が必要だった。その覚悟を持って、リスクの時空に飛び込んだ。絶対的な必然として会いに行くべきだと感じていた。考えたくもない「何ものか」がそうさせたのだ。
僕はこういうふうに考えた。彼はツッコミの人である。人によってツッコミ気質かボケ気質かという傾向の違いが大まかにあると思う。自分はボケの傾向が強い。ここで、自分なりにツッコミ/ボケの違いを定義してみよう。それは、何を恥ずかしいと思うかの違いだ。
ボケには決まったことをするのが恥ずかしいという思いが少なからずあるのではないか。自分はそうだ。決まったことから逸れてもいいなら恥ずかしくない。反対に、ツッコミは決まったことから逸れてしまうことを恥ずかしいと感じるらしい。自分にはその感覚はわからない。
このツッコミ/ボケの話は、疎遠になる以前にも、再会の後も、彼と話すことがあった。そこで交わされた会話のなかで、彼はツッコミにとっての恥として、こんな例を挙げた。
サッカーゴールに向かって離れたところから一人ずつボールを蹴る。この距離なら誰でも入るだろうという状況で一人だけボールを大きく外してしまったとき、彼は恥ずかしいのだという。また別の例で、授業中に指名されて教科書を読み上げるとき、こんなの読み間違えたりしないだろうという漢字を、読み間違えたり、読み方がわからなかったとき、これも彼にとっては恥なのだという。
僕にはこの感覚がわからない。教科書の例でいえば、自分は読んでいる最中に声が裏返ってしまったときに恥ずかしく感じる。逆にそれは彼にとって恥ではないらしい。声が裏返るのは身体のレベルにあるのに対し、ツッコミ的な恥は社会のレベルにあるのだと彼は言った。彼によれば、声が裏返るという身体的な出来事は恥に直結しないのだという。ツッコミ的な恥は規範との関係にある。ツッコミは、決まったことから逸れるのが恥ずかしい。
彼と疎遠になった経緯はこうだ。あることで僕は無自覚に常識を逸脱していた。彼がそのことを指摘した。しかし自分は、常識の前提となる規範がわからず、食い下がる態度になってしまった。ものごとの規範=コードを読むことが苦手な自分にとって、彼のツッコミは不法侵入であり、暴力であり、死角からやって来るもので、プレッシャーだった。
僕は恥の問題を考えたのだ。
小学生の頃、下足ホールで靴を履き替えるとき、誰かが、バーン、と言って、指で鉄砲を撃つ真似をした。このとき、うっ、とやられるふりをしなければならない。しかし自分は、ふざけてごまかしてその場をうやむやにした。うっ、の役ができなかった。
形式的に決まった演技をすることが、とてつもなく恥ずかしかったのだ。受け身の役がイヤだという男の子っぽさもあったと思う。決まったことを決まった通りにするのが恥ずかしかった。決まったことから逸れてもいいなら恥ずかしくない。指の鉄砲で撃たれても、まったく関係のない逸脱的行動をわざとする=ボケるのであれば恥ずかしくない。
うっ、とやられるふりをする、そのことに僕は恥ずかしさと怯えを抱いていた。しかし彼なら「それやったらええんか、まかしとけ!」という自信さえ湧くのだという。彼との間にとてつもない距離があると思った。
今、もう一度あの下足ホールに引き戻されて、目の前でバーンとされたら、僕は、うっ、とやられるふりができるだろうか。自信がない。やってみようとすればするほど、巨大な穴が足元に発生してそこに落っこちてしまいそうなプレッシャーがひしひしと伝わる。一歩が踏み出せない。途方もない一歩だ。うっ、とやられる僕になるためには、跳躍しなければならない距離がある。
彼に会いに行く日。こんなに一日が長いのかと圧倒された。出発までの部屋での時間は途方もなかった。自転車を漕ぎ、彼の家の前に来て、木造の二階建てを見上げた。一度は引き返した。しばらく家の周囲をぐるぐるして、また家の前に来て、インターホンを押すか押さないかまでの緊迫した時間。よく晴れた日の六月の朝だった。彼はまだ寝ているかもしれなかった。
